人の命が奪われる殺人事件、人の命が失われる事故が起こる時、そしてそれがより身近で起こる時、人は「命の重み」を考えるのではないでしょうか。しかし聖書を読むと、肉体的な命よりも、もっと大事ないのちがあることがわかります。今日は生まれた時から、不自由で歩くことが出来なかった一人の人が、奇跡によって歩くことが出来るようにされた記事から、霊的ないのちについて考えます。(使徒の働き3:1-10)
①霊的いのちの欠如: 霊的に死んでいることが一番の問題である (1-2節) →生まれつき歩くことが出来ない一人の男性は、毎日神殿の「美しの門」に連れて来られていました。神殿に出入りする人々からお金や物を恵んでもらうためです。彼は足が不自由なのですから、移動するためには、誰かに運んでもらわなければなりません。また自分で働くことは困難ですから、誰かの援助を必要としています。彼は何とか、生き延びていくためにそうせざるを得ませんでした。
この男性の姿は本当の神様を知らない人、霊的ないのちをいただいていない人を映し出しています。神様との関係をもっていない人は、神様を視野に入れて生活することができません。神様の基準で生活することも不可能です。常に自分の考えや、世の中の常識・価値観を土台として物事を決めていきます。それは「世」に、そして究極的にはこの世を支配している悪魔に縛られながらの生活です。それは表面的には自由があるようですが、この足が不自由な人のように誰かにコントロールされる生き方です。本当の神様との関係がない人は、霊的いのちをもっていません。その結果、霊的なことにほとんど関心がなく、物質的なこと、一時的なことに心が奪われています。永遠に存在し続ける魂を持つ人間にとって、霊的いのちがないという状態はきわめて重大な問題であると言わなければなりません。
②霊的いのちの付与: 霊的に生かされることはイエス様によって可能である (3-6節) →この男性は神殿に入っていこうとする、ペテロとヨハネに何かを恵んでもらおうとしました。ペテロはお金ではなく、この男性が一番必要としているものを与えました。男性の関心は今日の食事、今日の肉体的命であったことでしょう。それがとりあえず今日確保できるならばと考えたことでしょう。しかしペテロは今日、明日でなくなってしまうものとは違う、永遠のものをもっていました。それはペテロも神様からいただいた、霊的いのちです。本当の神様を知り、このお方が御子イエス様(の十字架の死)によって用意してくださった(罪のゆるしと永遠のいのち)救いを受け取ったのです。ペテロもヨハネも今は本当の神様とのつながりを持ち、霊的に生きる人と変えられたのです。この男性は「ナザレ人イエス・キリストの名によって、歩きなさい」と呼びかけられました。それは唯一の神であられ、救い主であられるイエス様を信じなさいという呼びかけでもあったのです。霊的いのちは神様から与えられるものです。そしてこれを受け取ることは最も重要です。
③霊的いのちの効果: 霊的に生かされるとは神様のために生きることである (7-10節)
→生まれてから一度も歩いたことがなかったこの男性は、ペテロの呼びかけに応じ、右手を差し出しました。イエス様がどのようなお方であるかも知らず、歩くということがどのようなことであるかも知らなかったでしょう。しかし彼は歩く意思をもって応じたのです。彼の足はイエス様のちからによって強くされ、歩いたり、飛び跳ねたりすることができるようになりました。イエス様を信ずる時に、人は変えられます。神様はその人の生き方、人生を変えてくださいます。それは神様と関係をもち、つながり始めたことで可能になるのです。足を直してもらった男性は神様を賛美して、ペテロ達と神殿に入っていきました。肉体的不自由から解放されただけでなく、霊的いのちをいただいた彼は、まず神様のために与えられたものを使ったのです。霊的いのちをいただいた人は、神様のために、神様が喜ばれることのために生きることができるようになります。これが人の本来あるべき姿なのです。
まとめ:イエス様にある霊的いのちを機能させましょう →それはイエス様を自分の個人的な救い主と信じていることが前提です。イエス様が神であられ、自分の救い主であることを信じ受け入れる人には、霊的いのちが与えられます。神様との交流が始まります。神様を意識した生き方、神様のみことばを基準とした生き方へと変えられていきます。この霊的いのちを与えられているクリスチャンはその効果が生活であらわされているでしょうか。イエス様を信じて自由になったはずなのに、まだこの世の中の考え方に縛られているといったことはないでしょうか。永遠の救いが与えられていること、神様との関係が与えられていることへの喜び・興奮が冷めてしまってはいないでしょうか。霊的いのちを機能させ活発化させるために、日々神様のみことばを深く味わい、祈りによって神様と深く交流しましょう。